『博士の愛した数式』とティリッヒ神学

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博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社)については何も私が書く必要はないだろう、そう思えるほど世の中に知れ渡っている小説だと思う。だから内容についてはとても良かったとだけ書いておくことにしよう。
この博士の愛した数式ティリッヒ神学を表しているように思えて、私の心はふるえた。だから、ただそのことだけを書きたいと思う。

私がティリッヒの言葉に出会ったのは八木誠一の『キリストとイエス』(講談社現代新書という一冊の本の中でだった。22の頃だ。数式の話だからという訳ではないが、今の私は、読んだ歳の2倍の年月もいつの間にか超えてしまっている。けれど、この歳になって神学まではいかないが、せめてティリッヒの伝記を読んでみようと思い、大島末男=著『ティリッヒ』(清水書院を読み始めたのだった。その翌日、博士の愛した数式をDVDで見て、その数式が、私の中で、ティリッヒ神学へとつながっていったのだった。

私は神学を学んだわけではないから、もしかしたら間違ったことを書いてしまうかも知れない。けれど、間違うことを恐れずに書いてみたいと思う。

 

私が『キリストとイエス八木誠一=著(講談社新書)の中で出会ったのは「神は存在の根柢である」(ティリッヒという言葉だった。それは、すでに洗礼を受けてはいたが、不安と迷いと混沌の中にあった私が、ここに居続けようとはっきりと思わされた言葉だった。

ティリッヒのこの言葉は、大島末男氏の伝記の中ではそのままの言葉では出てこない。伝記の中で一番この言葉に近いのは、存在の深み」であろうと思う。けれど、この言葉も思索の過程の中で変化していくもののように思われる。
ティリッヒという人は、あらゆるものと神学との相関関係を探ろうとした人のようだ。哲学と神学においては、哲学の問いに対して神学の 答えが相関される。哲学が哲学だけで閉じている時、私たちは答えの返らない問いの中に閉じ込められる。そしてその問いは答えを得られず虚無の中へと呑み込まれていく。この時の「深み」は「虚無の深淵」と言えよう。しかし、この問いに対して宗教的な答えが相関される時、虚無の深淵の中から存在自体」が立ち現れてくるというのだ。

ここで、博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社)から引用しよう。ゼロの発見について博士が語る場面だ。

古代ギリシャの数学者たちは皆、何も無いものを数える必要などないと考えていた。無いんだから、数字で書き表すことも不可能だ。このもっともな論理をひっくり返した人々がいたのだよ。無を数字で表現したんだ。非存在存在させた。素晴らしいじゃないか」

この言葉の後には次のような言葉が出てくる。

「0 が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる。さあ、思い浮かべてごらん。梢に小鳥が一羽とまっている。澄んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、羽にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去 る。」
・・・。
「1-1=0
 美しいと思わないかい?」

 

ここのゼロは、小鳥が確かに存在したということを表している「0」だ、と私は思った。そして、0の登場によって秩序が強固になるというところで、0の中にある神と等しい性質を思った。
それにしても、博士の愛した数式は、何て美しい物語なのだろうと思う。

 

さて、肝心の博士の数式とティリッヒ神学の関係に移りたいと思う。
オイラーの公式というのがあるらしい。それは、e のπi 乗プラス1=0というものらしい。
私は昔から数学音痴なので、本文の引用によって物語の中でこの公式がどのように理解されたかを示すことにしよう。

πと i を掛け合わせた数で e を累乗し、1を足すと0になる。
私 はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場し ないのに、予期せぬ宙からπが e の元に舞い下り、恥ずかしがり屋の i と握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。(『博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社))

e とは循環しない無理数で、2.718281・・・と果てしなくつづいてゆく数らしい。円周率πも循環しない無理数だ。i はー1の平方根虚数だと言う。この3つは、それぞれが何処までもそれとして存在していて決して交わらないもののように思える。このところで、私は、ティリッヒ』大島末男=著(清水書院の6ページ目に出てくる民主主義についての定義を思い浮かべた。

民主主義は異なる意見をもつ人々が「それにも拘わらず」正義に基づいて結合する。つまり分離(差異性)を前提とした結合(同一性)を民主主義は本質とするが、これが具体性と究極性を統合するティリッヒの「究極の関心」の本質であり、一神教の原理である。この同一性と差異性の同一性こそティリッヒ神学の根本構造であり、民主主義の哲学的根拠はその例証なのである。

「同一性と差異性の同一性」などと言われると、「なんじゃ、そりゃ?」と思ってしまうのだが、つまり、他とは全く相容れない個どうしが個でありながら一つに統合された状態を言っているのだと思う。そしてこの状態こそがティリッヒ神学の根本構造だと言っているのだ。

 

博士の愛した数式の中では、「一人の人間が1つだけ足し算をした途端」と表現されていたのだが、私はここを、「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが0という無限の存在によって抱き留められる」と表現したいと思う。

神という存在の根柢によって、私達は私達自身でありつづけながら、無限に抱き留められている。

 

熟したるりんごは木からころげ落つ 神の無限の腕の中へと

 

この短歌擬きは、福島原発事故後に収穫されずにころげ落ちるりんごを詠んだもの。

しかし、神の御手は・・。

 

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27)