死ぬべきものがーマルケス断章

ガルシア・マルケスの初期の作品『青い犬の目』という短編集がある。この短編集を読んで一番に頭に浮かんだのが、「死」という文字であった。『百年の孤独』に見られるような豊穣さは全く感じられず、硬く、ひたすら「死」について思いつめているような、「死」についての答を得ようとしているような印象であった。

訳者の井上義一氏も「あとがき」で、「後年の長編『百年の孤独』や『族長の秋』の世界にはこれほど死へのこだわりはない。おそらく若いころのマルケスは死を切実に考え詰めていたのだろう」と書いておられる。


そう、死、なのである。


死はすべての人に及んだ(ローマ信徒への手紙5:12)

この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。「死は勝利にのみ込まれた。(コリント信徒への手紙一15:54)

f:id:myrtus77:20180913100215j:plain

ガルシア・マルケス『青い犬の目』(福武書店

以下は、老齢の牧師の旧約聖書に聴く」

「コヘレトの言う運命」
 コヘレトの教えを聞いていて不思議に思うことがある。世の中には知者と愚者がいるが、同一の運命が臨む、と言う(2:14)。(中略)
 新共同訳では「両者に同じことが起こる」とあり、「運命」とは訳さない。「起こる」と言う。コヘレトの教えでは、知者にも愚者にも「死」が臨むと繰り返す。運命とは死のことである。人の終わりが死である。この厳粛な事実を誰も否定することはできない。
(中略)
もし、死から救い出す手があるとすれば、神以外には解決者はいない。この基本的な理解のほかに、人はいろいろと考え、教えてきた。一方では死を恐れつつ、その解決と克服の方法を示そうとしてきた。宗教であったり、哲学であったりする。(略)聖書の世界に「運命」というものが入り込む余地はないと思う。「主なる神」に対抗し、張合う別な力や決定者はあり得ない。(略)
 新改訳でも新共同訳でも「運命」という訳語は避けている。誤解されないためであろう。手持ちの他国語の聖書訳には「運命」の意味を含むと思われる単語が用いられている。コヘレトが、万人に定められ、避けることのできない決定的な「死」を「運命」と呼ぶのであれば、受け入れられる。運命論者ではない。抗い得ない状況に襲われ、運命と考える人ではない。どのような事態にも、想像や期待を遙かに越えた明るい明日が用意され、約束されていると信じて待ち望んでいる。彼もまた隠れたキリスト信者である。(後略)(『福音時報』2018年9月号より抜粋引用)