風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』1

やがて迎えた三月のある日の午後、紐に吊したシーツを庭先でたたむために、フェルナンダは屋敷の女たちに手助けを頼んだ。仕事にかかるかかからないかにアマランタが、小町娘レメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、
「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。
 すると、シーツの向こうはじを持った小町娘のレメディオスは、相手を哀れむような微笑を浮かべて答えた。
「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
 彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。
 もちろんよそ者たちは、ついに小町娘のレメディオスも女王蜂としての逃れがたい運命の犠牲になった、昇天の話はでたらめで、身内の者が体面をつくろうためのものだ、と考えた。フェルナンダは激しい羨望に悩まされたが、しぶしぶこの奇跡を認め、当分のあいだ、シーツだけは返してくださるようにと、神様にお願いをしていた。(ガルシア・マルケス百年の孤独』より)

 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』というと「魔術的リアリズム」という言葉で語られる。引用したこの小町娘レメディオスの昇天の場面も、魔術的リアリズム的描写の代表的なものとしてあげられるのではないだろうか。

しかしこの場面の描写は、これまでどんな書物の中にも見たことがないというような荒唐無稽なものではない。ちょっと聖書を読んだことがある者なら、ここから次のような箇所が連想されるはずである。

彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。(列王記下2:11)

聖書の中には死なないで天に上げられる者が出てきたりするのである。

ガルシア・マルケスは幼少期に祖父母から様々な話を聞かされて育ったようだが、中には聖書の物語も含まれていただろうということは容易に想像される。そしてマルケス自身、聖書に精通していたのではないかと私は思う。

ガルシア・マルケスという一人の人間が描いた物語の底に多くの物語が堆積している。この辺りに、マルケスの作品の力があるように思う。

 

しかし、こういった魔術的リアリズムと言われるような描写や場面は読み物としては面白く読めるところだろうが、肝腎なのはそこではないと私は思う。

「しばらくそのまま。これから、神の無限のお力の明らかな証拠をお目にかける」
 そう言ってから、ミサの手伝いをした少年に一杯の湯気の立った濃いチョコレートを持ってこさせ、息もつかずに飲み干した。そのあと、袖口から取りだしたハンカチで唇をぬぐい、腕を水平に突きだして目を閉じた。すると、ニカノル神父の体が地面から十二センチほど浮きあがった。この方法は説得的だった。それから数日のあいだ、神父はあちこちの家を訪れて、チョコレートの力による空中浮揚術の実験をくり返し、袋を持った小坊主に金を集めさせた。おかげで多額の金を得ることができ、ひと月たらずのうちに教会の建設に取りかかった。この公開実験に神の力が働いていることを疑う者はなかったが、ホセ・アルカディオ・ブエンディアだけは別だった。(『百年の孤独』)

この場面なども魔術的リアリズムを言及するために取り上げられる箇所だと思うが、マルケスはここで、「信仰とは何か」を問うているのだ。ここに続く場面には、「神父は自分の信仰が心配になり、その後は二度と彼のもとを訪れようとしなかった」と出て来る。風刺や皮肉がこめられていると言っても良い。

マルケスが問題にしているのは、伝統的な組織の中にある教条的で形骸化した、魔術的で歪んでしまった信仰だろう。

マルケス無神論の人ではない。信仰を持っていたはずだ。だからこそ、問うのだ。

「信じていると言って、いったい何を信じているのか!」

「どこに愛があるというのか!」

 

(ここで言う「信仰」とは、もちろんキリスト教以外のものではない。)