どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』2

…、ある暑さのきびしい水曜日のことだった。籠を持ったひとりの年配の尼僧が屋敷を訪ねてきた。戸口に出たサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダは、てっきりただの届け物だと思い、美しいレースの布をかぶせた籠を受け取ろうとした。ところが尼僧は、フェルナンダ・デル=カルピオ=デ=ブエンディア様にじかに、人目につかないようお渡しせよと指図されている、と言って、断った。メメの子供がはいっていたのだ。(略)フェルナンダは内心、この運命の皮肉ないたずらにかっとなったが、尼僧の前ではそれをおくびにも出さなかった。
「籠に入れられて川に浮いていた、ということにでもしましょう」と、微笑さえふくんで言った。
「そんな話、信じるでしょうか?」尼僧がそう言うと、フェルナンダは答えた。
「聖書を信じるくらいですもの。わたしの話だって信じるはずだわ」
 帰りの汽車を待つあいだに、尼僧は屋敷でお昼をよばれた。くれぐれも粗相のないようにと言われてきたとおり、あれっきり赤ん坊のことを口にしなかったが、しかしフェルナンダは、彼女を一家の恥の好ましからざる生き証人だと考えて、凶報をもたらす使者を縛り首にしたという、あの中世のしきたりが廃れたことを嘆いた。それで仕方なく、尼僧が去りしだい子供を浴槽に沈めようと決心したのだが、さすがにそんな非道なことはできなくて、厄介ものが消える日を辛抱づよく待つことになった。(ガルシア・マルケス百年の孤独』より)

 フェルナンダが、娘メメの産んだ子を引き取る場面である。

「籠に入れられて川に浮いていた」赤ん坊というのは、もちろん聖書に出て来るモーセ物語を下敷きにしている。

この場面には幾重にも痛烈な皮肉が込められている。

だから、「どこに愛があるというのか!」、「何を信じているのか!」なのだ。