風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

説教「死人の中からよみがえられたかたのものとなり・・」(ローマ人への手紙7:1~6)

「死人の中からよみがえられたかたのものとなり・・」(ローマ人への手紙7:4)

 

 「それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか」。


 信仰生活の中で既に知っているべき大切なことを語るのに、パウロは「あなたがたは知らないのか」と言います。既に 6:3、6:16 と2回言われています。


 伝えたいのは最初の 6:3 で言われていることです。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(6:3~4)。

 

 イエス キリストを信じる者は、キリストと一つに結び合わされ、古い自分に死んで、新しく救いの中に生かされている。パウロはこのことをはっきり理解させたいのです。


  新しく救いの中に生かされているというのは、キリストの救いから自分自身を理解する。救いから自分の人生を見て、自分の将来を知る。この罪の世界も救いから理解するのです。救いから神の御心を知るのです。神がこのわたしをどう思っておられるのか。この世界をどう思っておられるのか。神はわたしをどう導かれるのか。どんな未来を与えてくださるのか。神はこの世界をどのように導き、どこへと至らせるのか。それを救い、すなわちイエス キリストから知る。それが新しい命に生きるということです。

 

 それを理解させるための例えが「夫が死ねば、夫の律法から解放される」(2節)という話です。例えですから、この手紙が書かれた時代、ローマで生きて暮らしている人々によく分かるための例えです。今からほぼ2,000年前の時代に生きた人々が分かるための例えです。ですから21世紀の日本に生きるわたしたちがこの例えにピンとこなくても気にしなくてかまいません。例えで伝えようとしているそのこと自体を理解すること、パウロが伝えようとしたことそのものを理解することが大事です。ですので、この例えを細かく説明することは致しません。

 

 きょうの箇所でパウロが 一番言いたいのは4節です。「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである」。

 律法から見るのではなく、キリストから見る。「わたしはキリストのものである」という救いの出来事から自分を知る。その事実は「わたしたちが神のために実を結ぶに至る」のです。


 

  「神のために実を結ぶ」とは一体どういうことでしょうか。これは神を指し示すに至るということです。マタイ 5:16 には「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。立派な行いとは、天の父、つまり父なる神を崇めるようになる業のことです。みんなが自分を見て、自分をほめるのではなく、自分ではなく神を見る業です。律法を守って「これだけ正しく信仰的に生き ています、いいことをしています」ということを見せるのではなく、ただひたすらに神を指し示すのです。わたしを見せるのではなく、わたしを見るのではなく、「この方を見よ」とイエス キリストを指し示し、神を証しするのです。それが、神のために実を結ぶに至るあり方です。

 

 パウロは言います。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」。


 律法によって生きていたときは、自分が律法を守っているかどうか、つまり自分自身が絶えず気にかかります。自分で自分を見つめます。神に目を向けるのではなく、絶えず自分に目が行きます。


  罪に囚われ、死へと向かっている自分を見つめているのですから、そこに救いはなく、死に至る実しか現れてこないのです。救いをもたらしてくださるキリストに目を向け、思いを向けるのではなく、律法を守ろうとしている自分がずっと気になっているのですから、そこに救いはありません。

 

 「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」。

 「新しい霊」とは「聖霊」のことです。聖霊によって、イエス キリストが救い主であることを知り、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活した新しい自分へと生かされていることを知るのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント 12:3)のです。

 

 父・子・聖霊なる神が、そのすべてをわたしたちに示し与えていてくださいます。イエス キリストがご自身の命をかけて、死んで復活してくださるほどにわたしたちは愛されています。だからわたしたちは、もはや自分を気にする必要がありません。自分には生きる意味があるのかとか、生きる価値があるのかとか問う必要がありません。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。


  神がひとり子を遣わし、その命を献げて贖いを成し遂げる。その出来事の中に、わたしたちの存在する意味も価値もあるのです。わたしたちの命の意味も価値も、自分自身で作り出すのではなく、作り上げるのでもなく、わたしたちを愛していてくださる神の出来事の中に、既にわたしたちの生きる意味も価値もあるのです。神はそれをひとり子イエス キリストを世に遣わして、その十字架と復活によって証しをしてくださいました。

「わたしはあなたのためにひとり子を遣わす。あなたを裁くのではなく、救い主を裁くことによってあなたの救いを成し遂げる。死を討ち滅ぼす。わたしと共に生きられるように、わたしは救いの御業を成し遂げる。あなたを愛しており、 あなたと共に生きたいと切に願っている」。だから、イエス キリストは生涯、その神の御心をわたしたちに語り続けてくださるのです。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。


 わたしたちはキリストと一つに結び合わされました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)なのです。

 

 パウロはその神の恵み、わたしたちの救いがイエス キリストにこそある、それを伝えるために言葉を尽くし、例えを用いて、「あなた方は知らないのか」と3度繰り返しながら語りかけているのです。


 パウロは 祈りを込めてこの手紙を書いただろうと思います。それは今、遠くにいる人とも電話で話せる、会いに行くことだってできる、そういう時代に生きているわたしたちには、想像できないくらいの思いだろうと思います。まだ会ったことのないローマの教会の人々、ローマに旅した主にある兄弟からその教会の様子・人々の様子を聞いて、「手紙を書かなくては」そう思って16章にも及ぶ長い手紙をしたためました。

 キリストを信じて集った人々が、キリスト以外のものに望みを置いて恵みを失うことがないように、神が注いでくださる恵みのままに救われ喜ぶことができるように、そのことを願って書いています。「イエス キリストがあなたの救い主なのだ、キリストは人となって世に来られ、十字架を負い、そして復活されたのだ。あなた方はこのキリストと一つにされている、そのことを知らなくてはならない」。そのような思いでパウロはこの手紙を書いています。

 

 わたしたちは、神がわたしたちのために遣わされたイエス キリストを救い主と信じ、キリストにすべてを委ね、キリストを仰いでキリストを見つめて生きればよいのです。そのとき、わたしたちは律法からも自分自身からも解き放たれ、キリストのものとなり、神のために実を結ぶに至るのです。

 

生きているときも死に臨むときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
それは、生きているときも死に臨むときも、わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス キリストのものであるということです。(ハイデルベルク教理問答 問い1)

 

ハレルヤ

 

この説教は、最も大事だと言う4節「死人の中からよみがえられたかたのものとなり」と呼応する形で「わたしたちが、イエス キリストのものである」というハイデルベルク信仰問答で終わったという点で、一貫性があり、完成度が高い。

それに、神の恵みを、キリストの救いの御業を伝えたいというパウロの思いが伝わってくる。