ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』とローマ人への手紙7章1~4節

ローマ人への手紙7章1節から3節までの聖書朗読を聞いて、ガルシア・マルケスの『コレラの時代の愛』の一節を思い浮かべた。

先ず、ローマ人への手紙から引用する。

それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか。わたしは律法を知っている人々に語るのであるが、律法は人をその生きている期間だけ支配するものである。すなわち、夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって彼につながれている。しかし、夫が死ねば、夫の律法から解放される。であるから、夫の生存中に他の男に行けば、その女は淫婦と呼ばれるが、もし夫が死ねば、その律法から解かれるので、他の男に行っても、淫婦とはならない。(ローマ人への手紙7:1~3)

パウロはローマ人でこんな喩えを用いて語っていたのかと思わされたのだが、マルケスはここの御言葉を踏まえて次の場面を描いたのではないかと思った。

そのときしみひとつないリネンのスーツを着たフベナル・ウルビーノ博士の姿が目に入った。職業的な厳しさと心をとろかすやさしさをたたえ、公的なものを愛してやまなかった博士が、過去から来た船の上から白い帽子をふって別れのあいさつをした。以前、博士は彼女にこう言ったことがあった。《男というのは偏見に縛られたあわれな奴隷なんだよ。それにひきかえ、女性はある男と寝ると決めたら、どんな障害でものり越えていく、要塞があれば攻め落とすし、道徳的な問題があっても、平気で無視できる。そうなると、神様も眼中にないからね》。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』より)

この場面は、亡くなった博士が霊となって、フロレンティーノ・アリーサと共に船出したフェルミーナ・ダーサの元に別れを告げに来る場面である。

 

ドストエフスキーも投獄中に聖書を読んだと言われているが、マルケスも聖書は熟読していただろうと思われる。

 

コレラの時代の愛』から「ローマ人への手紙」を逆照射すると、聖書の語っていることが理解出来るのではないかと思った。

わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである。(ローマ人への手紙7:4)

「他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかた」とは、イエス・キリストのことである。私たちは律法に死んで、キリストのものとなるのだ。

 

ローマ人への手紙は、「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)にも象徴されているように、人間の側の正しさではなく、徹底して神の優越性を語る。

11章32節に記されているように、神は自在に人間に臨まれる。それは全ての人に救いを得させるためである。

私たちは、律法に縛られている状態からキリストのものとなり、本当の自由へと解放されるのである。

 

ローマ人への手紙から『コレラの時代の愛』に戻るなら、どうなるだろう?

「律法に死んで、キリストのものとなる」、ウルビーノ博士からフロレンティーノ・アリーサのものとなるのだ。