ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』からティリッヒ神学へ

「これがどういうものなのかずっと分からなかったんです」と彼女が言った。
 彼はいちいちその場所に彼女の手を導きながら、教師のように生真面目に説明してやり、彼女は彼女で模範的な生徒らしくおとなしく言いなりになっていた。頃合を見て彼は、明かりをつけたほうが説明しやすいんだがね、と言った。明かりをつけようとしたが、彼女はその手を押しとどめて、こう言った。《手を使ったほうが分かりいいんです》。実を言うと明かりをつけたかったのだが、人から命じられるのでなく、自分からそうしたかったのだ。実際彼女自身が明かりをつけた。明かりの下で、彼女はシーツに包まって胎児のような姿勢をとっていた。しかし、あの興味の対象である生き物をためらうことなくつかむと、右を向けたり、裏返したりして調べていたが、単に科学的な興味以上のものを抱きはじめたように思われた。最後にこう言った。《なんだか変な形ね、女性のものより醜いわ》。彼は、たしかにその通りだと言い、醜いだけでなくほかにもいろいろと不便なことがあると言って、こう付け加えた。《これは長男と同じなんだ。これのために一生働き続け、あらゆる物を犠牲にし、挙句の果てに結局これの言いなりになるんだからね》。彼女は、これはなんの役に立つの、あれはどうなのと次々に質問を浴びせながら、つぶさに調べ続けた。そして、もうこれでいいだろうと思ったところで、両手でその重さを測り、それほど重いものでないと分かると、軽蔑したようにふたたびポイッと投げ出した。
「それに、余計なものがいっぱいくっついていますわ」と言った。
 それを聞いて彼は戸惑った。彼の学位論文のタイトルが、『人体の器官を単純化した場合の効用について』というものだったからだ。人類が若い頃なら必要だったかもしれないが、現代にあっては役に立たないか、重複している機能が沢山ついていて、人体は今ではもう古びたものになっているように思われる。人体はもっと単純であっていいし、そうなれば病気にかかる率も低くなるはずだ。さらに、論文の結びでこう書いた。《もちろん人間は神によって創造されたものであるが、いずれにしても理論的な用語によって明確にしておくことが望ましい》。それを聞いて、彼女はごく自然に、本当に楽しそうに笑ったが、彼はその機を逃さず彼女を抱きしめると、はじめてその口にキスをした。(ガルシア・マルケスコレラの時代の愛』)

この場面を読んで、ティリッヒの言う「同一性と差異性の同一性」が三位一体の神に根拠をおいていたのだ、と理解した。

父、子、聖霊という全く相容れないものが、それぞれでありながら、神の中で一つとなっている。

全く相容れないものが一体となる。聖書に記された結婚の奥義はここにある。それ故、男と女でなければならないのだ。

 

神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。(創世記1:27)

 

もっとも遠いと思われるもの、もっとも理解出来ないと思われるもの、全く相容れないものがそれぞれでありながら一つとなる。ここにあらゆるものの奥義がある。すなわち、平和というものの、共存というものの、そして、愛というものの。

 

以下は、老齢の牧師の『旧約聖書に聴く』から

コヘレト「わたしは見た」
 しかし、見る、ではなく「わたし」に注目しよう。何度も「わたし」と言う。こんなに自分のことを語る人を旧約聖書の中に見るだろうか。しかも「わたしは」と自分を強調する。ヘブル語ではアニーと言う。(略)
 コヘレトは十数回「アニー」と言う。自分が神の「アニー」を前にして、アブラハムの言葉を借りれば「ちりひじ」に過ぎない、むなしい者であることを徹底的に知りつつ、臆せず何度も何度も「アニー」を繰り返す。「わたし」の考え、洞察、見方、意見、発言がどんなにむなしいものであるかを知りつつ、あえて自分をそこに押し出す理由は何であろうか。ヨーロッパの文化と歴史をよく知っている加藤周一が、そこに生きる「わたし」の強さに驚き、…日本の伝統には「わたし」はない、と言った。…。古語辞典でも現代国語辞典でも「われ」は「わたし」と「あなた」の両方に用いられる、と説明してある。無私、無我、没我滅私が理想なのだろうか。我を張る人間は嫌われるのだろうか。この国の中で「わたし」はどうなって行けばよいのか、重い課題である。
 1923年、マルチン・ブーバーというユダヤ人が「我と汝」という小さな論文を書いて、第一次世界大戦後のヨーロッパに大きな反響を興した。(略)
 コヘレトが「わたし」を力強く押し出して来ることができる根拠は、真の「わたし」である神にある。コヘレトが初めから「わたし」として存在するわけがない。それは造られた「わたし」である。その「わたし」が造り主に向かって「あなた」と呼ぶことが出来る。ほめたたえることができるし、そう命じられている。そうしてもよいどころか、そうすべきであり、心からそうしたいのである。そうしない「わたし」はもはや「わたし」ではない。万事につけて活き活きとした「われとなんじ」が生起する。(『福音時報』10月号)