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まだ雨はふり続いていた。どこかでサイレンが鳴り響き、やがて雷にかき消された。
「しかし0が驚異的なのは、記号や基準だけでなく、正真正銘の数である、という点なのだ。最小の自然数1より、1だけ小さい数、それが0だ。0が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる。さあ、思い浮かべてごらん。梢に小鳥が一羽とまっている。澄んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、羽根にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去る。もはや梢には影さえ残っていない。ただ枯葉が揺れているだけだ」
本当にたった今、小鳥が飛び去っていったかのように、博士は中庭の暗がりを指差した。雨に濡れ、闇は一層濃くなっていた。
「1-1=0
美しいと思わないかい?」
博士はこちらを振り向いた。一段と大きな雷鳴が轟き、地響きがした。母屋の明かりが点滅し、一瞬何も見えなくなった。私は彼の背広の袖口を握りしめた。
「大丈夫。安心していい。ルート記号は頑丈だ。あらゆる数字を保護してくれる」
そう言って博士は、私の手をさすった。
予定どおりルートは帰ってきた。おみやげは小枝とどんぐりで作った眠りウサギの置物だった。博士はそれを仕事机の上に飾った。(小川洋子=作『博士の愛した数式』より)
このゼロは、小鳥が確かに存在したということを表している「0」だ、と私は思った。