風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

説教「罪を知って、キリストの掛け替えのなさに気づき・・」(ローマ人への手紙 7:7~13)より

「罪を知って、キリストの掛け替えのなさに気づき・・」(ローマ人への手紙 7:7~13)からの説教

 

 律法の果たしている役割の一つに、罪に気づかせるという役割があります。律法がなければ、何が神の御心に背くことなのか、神と共に生きるにはどうすればいいのかを知ることができません。


 パウロ「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(7節)と言っています。

 

 では、律法によって神の御心を知ったならば、それに従って歩めるのかというと、それはできません。それはわたしたちが罪を抱えているからです。罪は、新約が書かれているギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ、目的からそれていくこと」を表します。パウロ「罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである」(8節)と言います。つまり律法という神の基準がなければ、そもそも背くということ自体起こらないのです。だから「罪は死んでいる」つまり罪は働かないと言っているので す。罪は律法のあるところで、戒めから外れ、神の御心からそれていくように働くのです。

 

 では、律法がなければよかったのでしょうか。罪を抱えてしまった以上、罪に気づくためには律法は不可欠です。罪を抱えてしまった以上、人は必ず神から離れていきます。悔い改めて神に立ち帰らなければなりませんが、律法がなくては罪に気づくことがありません。そして罪が死に導くことを知らなければ、 救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。これをパウロ「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」(9, 10節)と言っています。

 

 ところで、パウロは律法なしで生きたことなどありません。パウロはピリピ人への手紙の中でこう書いています。「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの 民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者で ある」(ピリピ 3:5,6)。彼は言ってみれば律法のエリートです。当時「国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人」(使徒 5:34)の薫陶を受けて育った律法学者の中の律法学者、パリサイ人の中のパリサイ人でした。


 そのパウロがなぜ「わたしはかつては、律法なしに生きていた」(9節)と言ったのでしょうか。それは、復活のキリストに捉えられて律法主義に気づいたからです。

 

 律法主義というのは、律法を表面上・形式上守ることで満足してしまうあり方、自分は神の御心に適って生きていると満足するあり方です。


 例えば、十戒安息日には何の業をもしてはならない」(出エジプト 20:8~ 10)という戒めに対して、自分は何km以上歩いていないし、何文字以上書いてもいない、何kg以上の荷物も持っていないから律法を守っていると考え、イエスが病人を癒やすと律法に反していると怒り出すような考え方です。


 パウロは生粋の律法学者、パリサイ人でしたが、復活のキリストに出会い、捉えられて、律法主義の間違いに気づき、本来神が律法を与えてくださった意図を全く理解していないことに気づいたのです。なぜなら「律法の義については落ち度のない」と言えるほどに律法を守っていたのに、イエス キリストを理解できませんでした。イエス キリストが救い主であることを知ったとき、今まで律法を学び行ってきたけれど、神の御心を全く理解できなかったことを知ったのです。今までの自分の信仰のあり方が間違っていたことに気づいたのです。


 だからパウロは言います。「罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した」(11節)

 

 そして律法主義の間違いに気づき、律法主義を捨てると、本来の意味で律法が働き出し、自らの罪に気づくようになりました。パウロはこの7章のもう少し後のところでこう言います。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ 7:18~20)。

 

 パウロは律法主義は捨てても、律法を捨てた訳ではありません。パウロは 神の御心をなしたい、善をしようと願います。しかし、神の御心をなしたいと欲しても、それをする力が無いことに気づきます。自分の思い、自分の考え、罪ある自分自身がなくなりません。自分とは別に罪があるのではなく、自分自身がまさしく罪人なのです。罪人であるこのわたしが救われなければならないのです。 わたし自身が神の国に入り、救いが完成するまで救われ続けなければなりません。

 

 しかしこの世は、律法主義であることを求めます。現在、わたしたちの周りには数え切れないほどの法律があります。そしてわたしたちの行動が法律に触れるかどうか問われています。裁判ともなれば、まさしく律法主義と同様に、法律に適っているかどうかが問題となります。つまり、罪の世は律法主義であり、罪人は律法主義を抱え持っているのです。


 しかしパウロは、神がキリストを遣わして、キリストと共に死に、キリストと共に復活するその恵みの大きさを知ったのです。本当の救い主キリストを知ったとき、パウロは律法主義から解放されたのです。

 

 キリストの救いを経験したパウロは、 律法と罪を理解し直しました。その理解が12, 13節に書かれています。「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、 わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである」。

 

 罪を正しく知るとき、いよいよキリストの救いを求めます。救いに与ったとき、キリストの掛け替えのなさに気づきます。


 エペソ人への手紙で、パウロは こう書いています。「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ 3:17~19)。

 

 パウロは、 ローマの人々が律法と罪を正しく知り、キリストの救いを切に求めるようになってほしいと願ってこの手紙を書いています。

 そして今、キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神ご自身が、キリストの救いを求め、救いに与ってほしいと願って、このローマ人への手紙を通してわたしたちに語りかけていてくださるのです。

 

ハレルヤ

 

讃美歌282
2 み栄えは主にあれ、つみびとをゆるす
  限りなきめぐみは あらたにしめされ
  律法(おきて)より解かれし
           自由のよろこび
  主に頼るこころに ふたたびあふれぬ

 

内田樹=著『レヴィナスと愛の現象学』から「ツィム・ツム(ヘブライ語の原義は「収縮」)」 - 風と、光と・・・雨音につつまれて

しかしこのイエスの教えを倫理道徳的規範律法や掟として捉えるだけであれば、「ツィム・ツム」行為へと一歩踏み出すことは不可能だろう。パウロキリストと出会って律法主義を捨てたように、自分の罪を知ってキリストの掛け替えのなさに気づきキリストに倣う者と替えられるのでなければ、「ツィム・ツム」的行為へと踏み出すことは出来ない。

したがってバルトにとって、聖書は、固定された規範という意味典型(鏡)を提供するのではなく、神の恵みの呼びかけと人間信仰の応答との間に展開される歴史出来事)の記録なのである。しかし神の呼びかけに応答した人間生き方分析してみると、キリストが示した典型にしたがって生きていることが判明するのである。(大島末男=著『カールバルト』より)

myrtus77.hatenablog.com