風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

蛸でタウリンを摂るというのは・・

以下の内容は私の思考過程のものであり間違いが含まれているかも知れません。

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蛸と若布の二杯酢(出汁醤油と酢)

タウリンの働きについて、臨床栄養士さんのサイトに以下のように記されていた。

・細胞膜内外を移動するカリウム、ナトリウム、カルシウム、及び、マグネシウムの働きを助け神経伝達機能を向上させる亜鉛タウリンの持つこの機能を促進させる)
https://nutmed.exblog.jp/22781917/

 

夫のようにうっ血性の心不全の場合はタウリンは欠かせない栄養素であるように思われる。加えて、夫のように薬の影響で亜鉛が欠乏している場合は亜鉛含有の多い食品を摂る必要がある。

亜鉛の多い牛肉とタウリン食材を組み合わせた食事を摂った時は何となく良いように思っていたのだが、その理由がこういうところ(↑)にもあったのだと思った。

だが、亜鉛が多く銅の少ない肉類を摂ると、亜鉛によって銅の吸収が阻害されて銅不足に陥る。それで、亜鉛含有の高い牛肉を食べる場合は、銅の含有が高めの蛸料理を組み合わせるようにしていた。

 

タウリン食材といっても色々ある。イカなどもタウリンが多いと言われているが、亜鉛と銅の比率は良くても、ナイアシン含有が高くなる。ナイアシンが多くなるとインスリンがつくられやすくなる。インスリンが放出され過ぎると、血中ナトリウム濃度を上げ、水分を引き込み、うっ血性心不全を引き起こすので、ナイアシン含有の多いものは要注意だ。

マグロなどにもタウリンは多いとされているが、ナイアシンがド高く、加えて水銀が多いのであまり多食しない方が良い。

ホタテ、エビ、アサリ、焼きのり等もタウリンが多いようだが、それぞれで含有成分が違うので、それぞれで組み合わせを考えるようにする。

 

タウリン てんかんによる発作を抑える。筋肉や腱に発生したダメージの回復を速める。皮膚の柔軟性を高める。アルコールの禁断症状による震えを止める。カリウムを体内で節約し、それを使って心筋のリズムを整える。(生田哲=著『心の病は食事で治す』p126より抜粋引用)

 

ところで、写真のタコはミョウバンを使わずに茹でている。数年前に小さなマーケットで、ミョウバンを使わずに茹でた地物の蛸を見つけて、今ではここのタコばかり買っている。スーパーだと、ミョウバンを使って茹でた色鮮やかなモロッコ産のタコしか置いてない。

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meromeropy77.hatenablog.com

野菜を食べるのもほどほどにしないとなぁ〜と思いつつ・・

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トマトとオクラのごま醤油和え

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大根と小松菜のスープ煮(冷製)

以下の内容は私の思考過程のものであり間違いが含まれているかも知れません。

通常、カリウムはナトリウムより原子量が大きいため、血中に留まりやすいだろう。

しかし私たちの体はナトリウム・カリウムポンプを設けて、細胞内にカリウムを多く、血液中にはナトリウムを多めに保つように仕組まれている。

しかしまた、このポンプが機能するためにはエネルギーが必要となる。そしてナトリウム・カリウムポンプはタンパク質で出来ているため、タンパク質合成に働く亜鉛やタンパク質自体が不足していると働きが低下し、電解質バランスが崩れると思われる。

電解質バランスが崩れることで体内の水分バランスも崩れる。こういったことからも夏は熱中症に陥りやすいと考えられる。

カリウムを塩化カリウム等の無機のカリウムで摂ると電解質バランスは崩れやすくなると思うが、野菜等の有機酸のカリウムからでも、摂りすぎれば細胞内に入りきれず、水分バランスを崩すことになるような気がする。

それで、野菜を食べるのもほどほどにしないとなぁ〜、と思うのだ。

カリウムは野菜や果物に多いと考えがちだが、一部の例外を除いて、肉や魚等も通常ナトリウムよりカリウムの方が多い。加工すると塩化ナトリウムの値はぐんと上がるが。

 

臨床栄養士さんのサイトで、

ナス科の植物の多くは、痛みや炎症、筋肉のけいれん、浮腫み、唾液過剰、瞳孔収縮に関わるアセチルコリンの分解をする酵素(アセチルコリンエステラーゼ)の働き阻害する成分が含まれています。つまり、ナス科食材を食べることで、アセチルコリンの分解ができにくくなり、アセチルコリンの蓄積量が増えることによって、関節痛などの症状がでるわけです。地下鉄サリン事件で有名になった神経ガスサリンアセチルコリンエステラーぜ阻害作用をもったガスで、神経麻痺、瞳孔収縮の症状が出るものです。

https://nutmed.exblog.jp/16926066/

 と記されていた。

うちはトマトやナスが好きで夏ともなればナス科の野菜を食べることが多くなる。それで、関節痛が起こったようには思わないのだが、気を付けて食べなくてはと思った。

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ナスとトマト

 

『博士の愛した数式』とティリッヒ神学

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博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社)については何も私が書く必要はないだろう、そう思えるほど世の中に知れ渡っている小説だと思う。だから内容についてはとても良かったとだけ書いておくことにしよう。
この博士の愛した数式ティリッヒ神学を表しているように思えて、私の心はふるえた。だから、ただそのことだけを書きたいと思う。

私がティリッヒの言葉に出会ったのは八木誠一の『キリストとイエス』(講談社現代新書という一冊の本の中でだった。22の頃だ。数式の話だからという訳ではないが、今の私は、読んだ歳の2倍の年月もいつの間にか超えてしまっている。けれど、この歳になって神学まではいかないが、せめてティリッヒの伝記を読んでみようと思い、大島末男=著『ティリッヒ』(清水書院を読み始めたのだった。その翌日、博士の愛した数式をDVDで見て、その数式が、私の中で、ティリッヒ神学へとつながっていったのだった。

私は神学を学んだわけではないから、もしかしたら間違ったことを書いてしまうかも知れない。けれど、間違うことを恐れずに書いてみたいと思う。

 

私が『キリストとイエス八木誠一=著(講談社新書)の中で出会ったのは「神は存在の根柢である」(ティリッヒという言葉だった。それは、すでに洗礼を受けてはいたが、不安と迷いと混沌の中にあった私が、ここに居続けようとはっきりと思わされた言葉だった。

ティリッヒのこの言葉は、大島末男氏の伝記の中ではそのままの言葉では出てこない。伝記の中で一番この言葉に近いのは、存在の深み」であろうと思う。けれど、この言葉も思索の過程の中で変化していくもののように思われる。
ティリッヒという人は、あらゆるものと神学との相関関係を探ろうとした人のようだ。哲学と神学においては、哲学の問いに対して神学の答えが相関される。哲学が哲学だけで閉じている時、私たちは答えの返らない問いの中に閉じ込められる。そしてその問いは答えを得られず虚無の中へと呑み込まれていく。この時の「深み」は「虚無の深淵」と言えよう。しかし、この問いに対して宗教的な答えが相関される時、虚無の深淵の中から存在自体」が立ち現れてくるというのだ。

 

ここで、博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社)から引用しよう。ゼロの発見について博士が語る場面だ。

古代ギリシャの数学者たちは皆、何も無いものを数える必要などないと考えていた。無いんだから、数字で書き表すことも不可能だ。このもっともな論理をひっくり返した人々がいたのだよ。無を数字で表現したんだ。非存在存在させた。素晴らしいじゃないか。」

 

この言葉の後には次のような言葉が出てくる。

「0 が登場しても、計算規則の統一性は決して乱されない。それどころか、ますます矛盾のなさが強調され、秩序は強固になる。さあ、思い浮かべてごらん。梢に小鳥が一羽とまっている。澄んだ声でさえずる鳥だ。くちばしは愛らしく、羽にはきれいな模様がある。思わず見惚れて、ふっと息をした瞬間、小鳥は飛び去る。」
・・・。
「1-1=0
 美しいと思わないかい?」

 

ここのゼロは、小鳥が確かに存在したことを表す「0」だ、と私は思った。

そして、0の登場によって秩序が強固になるというところで、0の中にある神と等しい性質を思った。

それにしても、博士の愛した数式は、何て美しい物語なのだろうと思う。

 

さて、肝心の博士の数式とティリッヒ神学の関係に移りたいと思う。
オイラーの公式というのがあるらしい。それは、e のπi 乗プラス1=0というものらしい。
私は昔から数学音痴なので、本文の引用によって物語の中でこの公式がどのように理解されたかを示すことにしよう。

πと i を掛け合わせた数で e を累乗し、1を足すと0になる。
私 はもう一度博士のメモを見直した。果ての果てまで循環する数と、決して正体を見せない虚ろな数が、簡潔な軌跡を描き、一点に着地する。どこにも円は登場しないのに、予期せぬ宙からπが e の元に舞い下り、恥ずかしがり屋の i と握手をする。彼らは身を寄せ合い、じっと息をひそめているのだが、一人の人間が1つだけ足し算をした途端、何の前触れもなく世界が転換する。すべてが0に抱き留められる。(『博士の愛した数式小川洋子=作(新潮社))

 

e とは循環しない無理数で、2.718281・・・と果てしなくつづいてゆく数らしい。円周率πも循環しない無理数だ。i はー1の平方根虚数だと言う。この3つは、それぞれが何処までもそれとして存在していて決して交わらないもののように思える。このところで、私は、ティリッヒ』大島末男=著(清水書院の6ページ目に出てくる民主主義についての定義を思い浮かべた。

 

民主主義は異なる意見をもつ人々が「それにも拘わらず」正義に基づいて結合する。つまり分離(差異性)を前提とした結合(同一性)を民主主義は本質とするが、これが具体性と究極性を統合するティリッヒの「究極の関心」の本質であり、一神教の原理である。この同一性と差異性の同一性こそティリッヒ神学の根本構造であり、民主主義の哲学的根拠はその例証なのである。

 

「同一性と差異性の同一性」などと言われると、わけが分からないと思ってしまいそうなのだが、つまり、他とは全く相容れない個どうしが個でありながら一つに統合された状態を言っているのだと思う。そしてこの状態こそがティリッヒ神学の根本構造だと言っているのだ。これは、三位一体を言い表している。

 

博士の愛した数式の中では、「一人の人間が1つだけ足し算をした途端」と表現されていたのだが、私はここを、「絶対的な一つのもの(つまり私の中では神ということだが、)を加えると、全く相容れなかったものたちが(0という)無限の存在によって抱き留められる」と表現したいと思う。

神という存在の根柢によって、私達は私達自身でありつづけながら、無限に抱き留められている。

 

熟したるりんごは木からころげ落つ 神の無限の腕の中へと

 

この短歌擬きは、福島原発事故後に収穫されずにころげ落ちるりんごを詠んだもの。

しかし、神の御手は・・。

 

とこしえにいます神はあなたのすみかであり、下には永遠の腕がある。(申命記33:27)