風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

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どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』5

…たちは神に背きました。(ダニエル書9:9) あぁ、やはり『百年の孤独』は「どこに愛があるというのか!」であったと思う。 しかし、『コレラの時代の愛』は「ここに愛がある!」なのだ。 けれど、『コレラの時代の愛』が「ここに愛がある!」だとしても、そんなに甘いロマンチックなものではないのだ。むしろ『百年の孤独』よりも詳細を論述するのが憚られるような凄まじい内容だと言えるだろう。 これは、ガルシア・マルケスの信仰告白に等しいのである。私などが書き切ることが躊躇われるようなものなのだ。

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』4

百年の孤独蔵して蟻の群「コリアンダーは昔つくつていましたよねぇ」それほど昔と思わないままいやぁもう30ねんはゆうに過ぎたヤブカラシのつるたぐりよせつつせんねんはいちにちのよういちにちはせんねんのよう夢のまた夢バビロニアは確か神に用いられ・・・・・夢のなかでヤブカラシ咲くさっき目が覚めたのは2時だったよなぁいつのまにやらもう明け方に まぁそのうち死ねばずっと寝ていられるからいいか復活で叩き起こされるかも知れないけど 『百年の孤独』の系図を見ていると、男性はアルカディオかアウレリ…

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』3

…を取り合って最後の数ヵ月をすごした」と記している。「奔放な交わり」という言葉の「奔放な」の前には、「近親婚の禁忌を破った」という修飾が省略されているだろう。こういったところからも、マルケスが近親婚の交わりを愛の交わりとして肯定しているようには到底思えないのである。 赤蟻や白蟻や紙魚や雑草から家を守るための太母のようなウルスラの闘いの中にも、歯止めの利かなくなったアウレリャノの叔母との交わりの中にも、マルケスは「愛」を描いてはいない。 だから、どこに愛があるというのか!なのだ。

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』2

…それで仕方なく、尼僧が去りしだい子供を浴槽に沈めようと決心したのだが、さすがにそんな非道なことはできなくて、厄介ものが消える日を辛抱づよく待つことになった。(ガルシア・マルケス『百年の孤独』より) フェルナンダが、娘メメの産んだ子を引き取る場面である。 「籠に入れられて川に浮いていた」赤ん坊というのは、もちろん聖書に出て来るモーセ物語を下敷きにしている。 この場面には幾重にも痛烈な皮肉が込められている。 だから、「どこに愛があるというのか!」、「何を信じているのか!」なのだ。

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』1

…面には、「神父は自分の信仰が心配になり、その後は二度と彼のもとを訪れようとしなかった」と出て来る。風刺や皮肉がこめられていると言っても良い。 マルケスが問題にしているのは、伝統的な組織の中にある教条的で形骸化した、魔術的で歪んでしまった信仰だろう。 マルケスは無神論の人ではない。信仰を持っていたはずだ。だからこそ、問うのだ。 「信じていると言って、いったい何を信じているのか!」 「どこに愛があるというのか!」 (ここで言う「信仰」とは、もちろんキリスト教以外のものではない。)

死と同じくらいに自分ではどうすることも出来なかったーマルケス断章

お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。(ホセア書6:4) ドストエフスキーが愛せないと苦しんだ時、そこには死が立ちはだかっていただろう。けれど、私が愛せないと苦しんだのは、そんな高尚なものではなかった。 振り返ると、すぐ目の前に氷のような眼、蒼白の顔、恐怖で引きつった唇が見えた。深夜ミサの人ごみの中ではじめてそばで彼を見たときと変わっていなかったが、あのときと違って心の震えるような愛情ではなく、底知れない失望を感じた。(ガルシア・マルケス『コレラの時代の愛』) 自…