風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』5

聖書の中にはメルキゼデクという「王」とも「祭司」とも言われるちょっと不思議な人物が出て来る。創世記(14章)にはアブラハムを祝福したサレムの王として。そしてヘブル人への手紙では、「イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司」(6:20)というようにキリストの予型(『新共同訳聖書聖書辞典』)として記されている。

 

一方、『百年の孤独』にはメルキアデスというジプシーの男が登場する。「アルキメデス」の文字を入れ替えたようなこの名前の男に私は最初から引っ掛かっていたのだが、マルケスが南ユダの興亡を描いているとしたら、メルキアデスがマコンドを創設したホセ・アルカディオ・ブエンディアに寄り添うような形で登場するのにも納得できる。

ルキアデスは羊皮紙に何やら予言めいたものを書き記して死ぬが、ここに記されたものを解読しながらアウレリャノ・バビロニアは一気に滅亡へと突き進んでいくのである。

 

(『百年の孤独』でも「聖書」と表現されて出て来る「聖書」があるのだが、この「聖書」がどういうものを表しているのか今のところ私にははっきり掴み切れていないのでこう書くのだが)本物の聖書には、神がバビロンを用いて南ユダを滅ぼすが、最終的にバビロンも主が滅ぼされるように記されている。

 

百年の孤独』がユダの興亡を記しているなら、「ここに愛はない!」と言えるだろう。

聖書は言っている。

お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。(ホセア書6:4)
憐れみと赦しは主である神のもの。わたしたちは神に背きました。(ダニエル書9:9)

 

あぁ、やはり『百年の孤独』は「どこに愛があるというのか!」であったと思う。

 

しかし、『コレラの時代の愛』は「ここに愛がある!」なのだ。

 

けれど、『コレラの時代の愛』が「ここに愛がある!」だとしても、そんなに甘いロマンチックなものではないのだ。むしろ『百年の孤独』よりも詳細を論述するのが憚られるような凄まじい内容だと言えるだろう。

これは、ガルシア・マルケス信仰告白に等しいのである。私などが書き切ることが躊躇われるようなものなのだ。

 

 

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』4

      百年の孤独蔵して蟻の群
コリアンダーは昔つくつていましたよねぇ」それほど昔と思わないまま
いやぁもう30ねんはゆうに過ぎたヤブカラシのつるたぐりよせつつ
せんねんはいちにちのよういちにちはせんねんのよう夢のまた夢
バビロニアは確か神に用いられ・・・・・夢のなかでヤブカラシ咲く
さっき目が覚めたのは2時だったよなぁいつのまにやらもう明け方に
   まぁそのうち死ねばずっと寝ていられるからいいか復活で叩き起こされるかも知れないけど

百年の孤独』の系図を見ていると、男性はアルカディオかアウレリャノを受け継いでいるのが分かる。一族を滅亡へと導く最後のアウレリャノには括弧書きで(バビロニア)と書かれている。この子は、メメとマウリシオ・バビロニアの間に生まれた子供だからだ。

そこでハッと思い浮かべたのが、南ユダ王国を滅ぼしたのがバビロニアだったということだった。エレミヤ書には、「わたしはユダの人をことごとく、バビロンの王の手に渡す」(エレミヤ書20:4)と記されている。バビロンはバビロニア帝国の首都」(『新共同訳聖書聖書辞典』)である。

 

さて、エゼキエル書には次のように記されている。

人の子よ、かつて二人の女性がいた。彼女たちは同じ母の娘であった。彼女たちはエジプトで淫行を行った。…。彼女たちの名は、姉はオホラ、妹はオホリバといった。彼女たちはわたしのものとなり、息子、娘たちを産んだ。彼女たちの名前であるオホラはサマリア、オホリバはエルサレムのことである。オホラはわたしのもとにいながら、姦淫を行い、その愛人である戦士アッシリア人に欲情を抱いた。

 

妹オホリバはこれを見たが、彼女の欲情は姉よりも激しく、その淫行は姉よりもひどかった。

 

そこで、バビロンの人々は愛の床を共にするために彼女のもとに来り、淫行をもって彼女を汚した。彼女は彼らと共に自分を汚したが、やがてその心は彼らから離れた。(エゼキエル書23:2~5、11、17)

 

アウレリャノ・バビロニアの母がメメであり、アウレリャノ・バビロニアとの間に豚のしっぽを持つ赤ん坊を生むアマランタ・ウルスラがメメの妹である。

エゼキエル書23章6節には「それは紫の衣を着た高官、知事、長官という皆、好ましい男たち、馬に乗る騎士たちであった」と、姉オホラの相手の様子が記されているが、メメの相手となるマウリシオ・バビロニアは車を運転する者としてメメの前に登場する。

 

読み込んで書き連ねていきながら、だんだんとガルシア・マルケスの途方もない巨人が姿を現して来るようでおののいているところへ、また一つハッと思い浮かべたことがあった。アブラハムと妻サラの関係である。サラは、アブラハムの異母妹であったのだ。

アブラハムは答えた。「…。事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです」(創世記20:11~12)

 

あぁ、マルケスは、ユダ王国の興亡を描いていたのか!?

 

 


 

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』3

このところ世界各国で同性婚が取り上げられてきているが、『百年の孤独』の最初から最後までを貫いて横たわっているのは近親婚の禁忌である。

 

古い集落で共に育ったホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランはいとこ同士で結婚するが、母親から、生まれてくる子供についての不吉な予言を聞いたウルスラは、「前のところが頑丈な鉄の尾錠で締まるようになって」いるズボンを履いて抵抗する。「結婚して一年にもなるのに、夫の不能のせいでウルスラはまだ生娘のままだという風評が立った」ある日、アルカディオは嘲った一人の男を殺してしまう。これが発端となって、二人は数人の者と一緒に集落を出、新天地に向かうのだ。

それがこの物語の舞台となるマコンドだ。

 

百年の孤独』の最初から最後までを貫いて近親婚の禁忌が横たわっていると言っても、マルケスが近親婚をタブー視しているというわけではない。むしろ、「生まれてくる子供についての不吉な予言」のために頑なに身を守ろうとするウルスラのあり方に、またその延長線上にある家を守るための闘いに、問いを投げかけているという風に思える。

しかし、と言って、マルケスが近親婚を肯定しているかと言えば、そう簡単には言い切れない。

 

籠に入れられて連れて来られたメメの産んだ子が豚のしっぽを持つ赤ん坊の父親となるが、この子供が生まれた時、「この百年、愛によって生を授かった者はこれが初めてなので、これこそ、あらためて家系を創始し、忌むべき悪徳と宿命的な孤独をはらう運命をになった子のように思えた」と記される。しかし「思えた」だから、それは幻想だったと言えるかも知れない。故に、生まれたこの子もまもなく死んで蟻の大群によって引かれていくのである。

そして「愛によって生を授かった」と記された前の頁には、「奔放な交わりから生まれる子供を忠実な愛によって迎えるべく、たがいの手を取り合って最後の数ヵ月をすごした」と記している。「奔放な交わり」という言葉の「奔放な」の前には、「近親婚の禁忌を破った」という修飾が省略されているだろう。こういったところからも、マルケスが近親婚の交わりを愛の交わりとして肯定しているようには到底思えないのである。

 

赤蟻や白蟻や紙魚や雑草から家を守るための太母のようなウルスラの闘いの中にも、歯止めの利かなくなったアウレリャノの叔母との交わりの中にも、マルケスは「愛」を描いてはいない。

 

だから、どこに愛があるというのか!なのだ。

 

 

 

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』2

…、ある暑さのきびしい水曜日のことだった。籠を持ったひとりの年配の尼僧が屋敷を訪ねてきた。戸口に出たサンタ・ソフィア・デ・ラ・ピエダは、てっきりただの届け物だと思い、美しいレースの布をかぶせた籠を受け取ろうとした。ところが尼僧は、フェルナンダ・デル=カルピオ=デ=ブエンディア様にじかに、人目につかないようお渡しせよと指図されている、と言って、断った。メメの子供がはいっていたのだ。(略)フェルナンダは内心、この運命の皮肉ないたずらにかっとなったが、尼僧の前ではそれをおくびにも出さなかった。
「籠に入れられて川に浮いていた、ということにでもしましょう」と、微笑さえふくんで言った。
「そんな話、信じるでしょうか?」尼僧がそう言うと、フェルナンダは答えた。
「聖書を信じるくらいですもの。わたしの話だって信じるはずだわ」
 帰りの汽車を待つあいだに、尼僧は屋敷でお昼をよばれた。くれぐれも粗相のないようにと言われてきたとおり、あれっきり赤ん坊のことを口にしなかったが、しかしフェルナンダは、彼女を一家の恥の好ましからざる生き証人だと考えて、凶報をもたらす使者を縛り首にしたという、あの中世のしきたりが廃れたことを嘆いた。それで仕方なく、尼僧が去りしだい子供を浴槽に沈めようと決心したのだが、さすがにそんな非道なことはできなくて、厄介ものが消える日を辛抱づよく待つことになった。(ガルシア・マルケス百年の孤独』より)

 フェルナンダが、娘メメの産んだ子を引き取る場面である。

「籠に入れられて川に浮いていた」赤ん坊というのは、もちろん聖書に出て来るモーセ物語を下敷きにしている。

この場面には幾重にも痛烈な皮肉が込められている。

だから、「どこに愛があるというのか!」、「何を信じているのか!」なのだ。

 

 

どこに愛があるというのか!ーガルシア・マルケス『百年の孤独』1

やがて迎えた三月のある日の午後、紐に吊したシーツを庭先でたたむために、フェルナンダは屋敷の女たちに手助けを頼んだ。仕事にかかるかかからないかにアマランタが、小町娘レメディオスの顔が透きとおって見えるほど異様に青白いことに気づいて、
「どこか具合でも悪いの?」と尋ねた。
 すると、シーツの向こうはじを持った小町娘のレメディオスは、相手を哀れむような微笑を浮かべて答えた。
「いいえ、その反対よ。こんなに気分がいいのは初めて」
 彼女がそう言ったとたんに、フェルナンダは、光をはらんだ弱々しい風がその手からシーツを奪って、いっぱいにひろげるのを見た。自分のペチコートのレース飾りが妖しく震えるのを感じたアマランタが、よろけまいとして懸命にシーツにしがみついた瞬間である。小町娘のレメディオスの体がふわりと宙に浮いた。ほとんど視力を失っていたが、ウルスラひとりが落ち着いていて、この防ぎようのない風の本性を見きわめ、シーツを光の手にゆだねた。目まぐるしくはばたくシーツにつつまれながら、別れの手を振っている小町娘のレメディオスの姿が見えた。彼女はシーツに抱かれて舞いあがり、黄金虫やダリヤの花のただよう風を見捨て、午後の四時も終わろうとする風のなかを抜けて、もっとも高く飛ぶことのできる記憶の鳥でさえ追っていけないはるかな高みへ、永遠に姿を消した。
 もちろんよそ者たちは、ついに小町娘のレメディオスも女王蜂としての逃れがたい運命の犠牲になった、昇天の話はでたらめで、身内の者が体面をつくろうためのものだ、と考えた。フェルナンダは激しい羨望に悩まされたが、しぶしぶこの奇跡を認め、当分のあいだ、シーツだけは返してくださるようにと、神様にお願いをしていた。(ガルシア・マルケス百年の孤独』より)

 ガルシア・マルケスの『百年の孤独』というと「魔術的リアリズム」という言葉で語られる。引用したこの小町娘レメディオスの昇天の場面も、魔術的リアリズム的描写の代表的なものとしてあげられるのではないだろうか。

しかしこの場面の描写は、これまでどんな書物の中にも見たことがないというような荒唐無稽なものではない。ちょっと聖書を読んだことがある者なら、ここから次のような箇所が連想されるはずである。

彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。(列王記下2:11)

聖書の中には死なないで天に上げられる者が出てきたりするのである。

ガルシア・マルケスは幼少期に祖父母から様々な話を聞かされて育ったようだが、中には聖書の物語も含まれていただろうということは容易に想像される。そしてマルケス自身、聖書に精通していたのではないかと私は思う。

ガルシア・マルケスという一人の人間が描いた物語の底に多くの物語が堆積している。この辺りに、マルケスの作品の力があるように思う。

 

しかし、こういった魔術的リアリズムと言われるような描写や場面は読み物としては面白く読めるところだろうが、肝腎なのはそこではないと私は思う。

「しばらくそのまま。これから、神の無限のお力の明らかな証拠をお目にかける」
 そう言ってから、ミサの手伝いをした少年に一杯の湯気の立った濃いチョコレートを持ってこさせ、息もつかずに飲み干した。そのあと、袖口から取りだしたハンカチで唇をぬぐい、腕を水平に突きだして目を閉じた。すると、ニカノル神父の体が地面から十二センチほど浮きあがった。この方法は説得的だった。それから数日のあいだ、神父はあちこちの家を訪れて、チョコレートの力による空中浮揚術の実験をくり返し、袋を持った小坊主に金を集めさせた。おかげで多額の金を得ることができ、ひと月たらずのうちに教会の建設に取りかかった。この公開実験に神の力が働いていることを疑う者はなかったが、ホセ・アルカディオ・ブエンディアだけは別だった。(『百年の孤独』)

この場面なども魔術的リアリズムを言及するために取り上げられる箇所だと思うが、マルケスはここで、「信仰とは何か」を問うているのだ。ここに続く場面には、「神父は自分の信仰が心配になり、その後は二度と彼のもとを訪れようとしなかった」と出て来る。風刺や皮肉がこめられていると言っても良い。

マルケスが問題にしているのは、伝統的な組織の中にある教条的で形骸化した、魔術的で歪んでしまった信仰だろう。

マルケス無神論の人ではない。信仰を持っていたはずだ。だからこそ、問うのだ。

「信じていると言って、いったい何を信じているのか!」

「どこに愛があるというのか!」

 

(ここで言う「信仰」とは、もちろんキリスト教以外のものではない。)

 

 

 

このキッチンで・・

キッチンとリビングの間には壁と一体となった食器棚が組み込まれている。

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こんな風に・・。

そして、

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リビング側からも

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キッチン側からも

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食器を

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取り出せるように

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なっている。

このキッチンで料理教室を開きたいと思っていたが、

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実現しそうにない。

 

myrtus77.hatenablog.com

 

 

空き缶とか、空き壜とか・・。

刈米義雄さんのブログを見つけて花あしらいに嵌ってしまって、引っ越し準備で捨てなくてはいけないというのに捨てられそうにない。

例えば、こんな

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空き缶とか、

それから、こんな

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空き缶とかに、

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チューリップなんか入れて

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食卓に飾ると

素敵じゃないかと、思ったりして・・。

 

こっちは、嫁入り道具で持って出て、引っ越しの度に連れてきた古い古い空き壜達。

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かつてグリーンピースの水煮が入っていた。

こちらは、

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麺つゆの空き壜。