「知る」ということ

ある時、夕食の足しにお総菜のカキフライを買って来た。 娘は食べないので、よそい分けもせずに夫と二人で食べるのにパックのまま出した。

タルタルソースを夫は全部のカキフライにかけて、残ったソースを「もう使わない?」と私に尋ねてきた。それで私は、「ソースは、少し囓った後にカキフライの囓り口につけて食べたいから、残しておいて」と言ったのだった。その時の、口がぽかんと開いたような夫の表情が印象的だった。

お店などでカキフライを食べるときは、囓る前に添えられたソースにつけて食べるだろう。ソースがたっぷり添えられているから。けれど、お総菜を買って来た場合には、付いているソースは少量だからそれが出来ない。だから私は、最初から丸ごとのカキフライにソースでもタルタルソースでもかけてしまいたくはないのだ。揚げて時間が経ってべっとりした衣にタルタルソースをかけたいとは思わないのである。

けれど、そんなどうでも良いことを普段は口にしないのだ。だから、そんなことを夫は初めて聞いたに違いない。 30年近く一緒に居て、初めて聞いた、という感じだったのではないだろうか?違っているかも知れないが・・?

 

聖書には、「男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)と記され、エバが身ごもってカインを産む前には、「アダムは妻エバを知った」(創世記4:1)と記されている。

「知る」という言葉は聖書ではとても重要な言葉だと思うが、男と女がお互いを知るというのは、その一瞬で起こることではないだろう。

聖書はまた「主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」(ペテロの第二の手紙3:8)と語っているが、罪に堕ちた私たち人間にとってはお互いを知るためには人生をかける必要があるのだと思わされる。

私の母のように夫の暴力から自分と娘を守るために逃げなければならないというような場合は別として、男と女が(最近は男と男が、あるいは女と女がという場合もあると思うが、いずれにせよ)、お互いを知るためには生涯をかける必要があるのだと私は思う。

そしてそのためには、キリストに伴っていただくということが必要なのだ、罪に堕ちて、愛することも知ることも難しくなってしまった私たち人間には。

 

ガルシア・マルケスが『コレラの時代の愛』で描き出しているのはそういうことである。