20代の頃、同僚に誘われて花を習い始めたのだが、土曜の午後で、一週間の疲れが出て休んでばかりいた。10年くらいは通ったと思うが、休むことの方が多かったから実質的には、その半分にも満たないのではないかと思う。
だから、母がいるうちに花を習いたいと娘に言われても、教えられるようなものは何も持っていないと思ったのだが、この際、花を活けるということについて自分なりに考えてみるのも良いかと思った。
菜の花を足す前には、
一つ一つの行為の中で捨てたり選んだりしていると言える。
また、八つ手の葉の支えがないと、
正面にある万両の赤い枝も、手前の八つ手の葉に支えられて安定している。
南天の葉の枝は、後ろ側の八つ手の葉に支えられているが、南天の実の枝と八つ手の葉の間に入れただけでは不安定である。左側の葉を南天の実の枝の前に出して安定させている。つまり、自分の枝葉でも自らを支えている。
細い枝は剣山に刺さらず、針と針の間をすり抜ける場合がある。添え木をして刺す場合もあるが私はほとんどやらない。
形を頭の中で思い描くことは出来ても、思い描いたように形作れるとは限らない。
技術的なことは、いくら教えられても、実際にやってみなければ身に付かないだろうと思う。
生花は正面から見て形の美しさが分かる入れ方だと思うが、ここの場所では、真上から見て美しく見える方が良いように思える。
こうして上から見たのでは、美しさが伝わらない気がする。
が、
私は休んでばかりいたのと、生花より盛り花の方を教えられていたので、流儀は身に付いていないのだが、最近になって、この流儀はまるでキリスト教の三位一体のようだと思うようになった。「天・地・人」は「父なる神、聖霊、イエス・キリスト」、あるいは「神、霊、人」として捉えられるのではないか、と。