風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

実南天と水仙を中心とした生花正風体変遷

 

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20代の頃、同僚に誘われて花を習い始めたのだが、土曜の午後で、一週間の疲れが出て休んでばかりいた。10年くらいは通ったと思うが、休むことの方が多かったから実質的には、その半分にも満たないのではないかと思う。

だから、母がいるうちに花を習いたいと娘に言われても、教えられるようなものは何も持っていないと思ったのだが、この際、花を活けるということについて自分なりに考えてみるのも良いかと思った。

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池坊の生花正風体では、「天・地・人」になぞらえて、「真(しん)・副(そえ)・体(たい)」という三つの柱に植物を配置して構成するようだ。

 

全体を見れば、実南天水仙が「真」だが、

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水仙の葉だけでも、三枚の葉が「真・副・体」を表している。

 

 

菜の花を足す前には、

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水仙の一葉をこのように入れて「体」らしいと思ったが、菜の花の邪魔になるので上のように変えた。

一つ一つの行為の中で捨てたり選んだりしていると言える。             

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また、八つ手の葉の支えがないと、

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南天の葉枝が、辛うじて踏みとどまってはいるが、後ろに倒れそうになる。

      

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正面にある万両の赤い枝も、手前の八つ手の葉に支えられて安定している。

南天の葉の枝は、後ろ側の八つ手の葉に支えられているが、南天の実の枝と八つ手の葉の間に入れただけでは不安定である。左側の葉を南天の実の枝の前に出して安定させている。つまり、自分の枝葉でも自らを支えている。

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南天の葉枝が実南天の枝の前にあると、
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左側のように安定する。

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が、後ろ側に入れると、右側のように不安定になる。

 

細い枝は剣山に刺さらず、針と針の間をすり抜ける場合がある。添え木をして刺す場合もあるが私はほとんどやらない。

 

形を頭の中で思い描くことは出来ても、思い描いたように形作れるとは限らない。

技術的なことは、いくら教えられても、実際にやってみなければ身に付かないだろうと思う。

 

生花は正面から見て形の美しさが分かる入れ方だと思うが、ここの場所では、真上から見て美しく見える方が良いように思える。

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が、

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これや、

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これ等も、上から見て「真・副・体」をどこか意識して活けていると自分で思う。



私は休んでばかりいたのと、生花より盛り花の方を教えられていたので、流儀は身に付いていないのだが、最近になって、この流儀はまるでキリスト教の三位一体のようだと思うようになった。「天・地・人」は「父なる神、聖霊、イエス・キリスト」、あるいは「神、霊、人」として捉えられるのではないか、と。

 

       

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