風の匂いの中に

『我らは神の中に生き、動き、存在する』(使徒言行録17:28)

チェダーチーズのヒスチジン含有量

以下の内容は私の思考過程のものであり間違いが含まれているかも知れません。

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チェダーチーズのヒスチジン量は、790mg。普通のプロセスチーズでは720mg。

パルメザンチーズになると1200mgとグンと上がるのだが、パルメザンチーズは亜鉛の含有が高く、銅の吸収を阻害しやすい。銅が吸収されないと貧血は改善されない。

日常的に摂るのであればチェダーチーズで摂るのが良いように思う。

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時折、黒胡椒の入ったチーズに替えて銅の摂取を心がけるようにすると尚良いかも知れない。
あるいは、銅が多めのあんこと組み合わせても良いと思う。

いずれにしても、偏って摂取しないためには、時折、取り入れるというのが良い。

 

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米粉のパンにあんこのスプレッドをぬってチェダーチーズを載せて焼いた。

 

meromeropy77.hatenablog.com

 

 

コラーゲン合成、心筋合成にプロリン(アミノ酸の一種)

以下の内容は私の思考過程のものであり間違いが含まれているかも知れません。

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プロリンは、体内に吸収されたたんぱく質アミノ酸からコラーゲンを合成する機能を促進させる働きを持っています。
また、心臓を構成している心筋を合成する際の材料としても使われています。
プロリンは、脂肪分解酵素であるリパーゼの分泌を促進し、脂肪を脂肪酸に分解してエネルギー源として消費しやすくする働きがあります。
プロリンは過剰摂取による副作用が確認されていないため、多少摂りすぎても問題はないと思われます。
しかし、一種類のアミノ酸を1日10g以上摂取するとショック症状を引き起こす危険性があるため摂り過ぎを警戒しておくのがベストでしょう。
また、心筋の合成にも関わるアミノ酸であるため摂取不足は心筋梗塞の遠因になる可能性もあります。
プロリンは動物性のゼラチン質や牛乳、小麦粉のグルテン質や大豆に多く含まれています。(『アミノ酸白書』より抜粋)

http://aminoacid-wp.jp/c11proline.html

引用したサイトには、プロリンを多く含む食材として「動物性のゼラチン質、小麦粉のグルテン質や大豆」があげられているのだが、これらには大量に含まれており、また血圧を上げる働きもあるため、摂りすぎない方が良いと思う。

日常的に、手軽に摂るにはプロセスチーズや脱脂粉乳が良いのではないかと思うが、脱脂粉乳は娘のアトピーにあまり良いように思えなかったので、今は、脱脂粉乳が入っている市販のカップスープ等で時折摂るようにしている。

また、同時に亜鉛や銅を摂らなければ、コラーゲンは合成されないだろう。脱脂粉乳やチーズには亜鉛は多いが、銅は少ない。

そこで、黒胡椒の入ったチーズ等はどうだろうか?黒胡椒には銅が多い。あるいはアーモンド入りのチーズ。これらを交替で献立に入れると良いかも。

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「柘榴」だと思っていたら「ふうせん花」文様(砥部焼)

器に目がない。

働き始めた頃に買った

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砥部焼

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紅茶茶碗に

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レモンティーを・・。

これを買った喫茶店は、今は、もう、店仕舞いしてなくなっている。

 

こちらは、中鉢

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太陽文。太陽と稲のような草が描かれている。

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ふうせん花文。

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「ふうせん花」は長らく「柘榴」だと思っていた。

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中鉢の内側

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中鉢の底、梅山窯。

 

ビールは飲まないのだけど、ビールジョッキ。

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右は、「ごす菊」文様。

夏にはこれに冷たい烏龍茶をたっぷり入れて使っていた。左は、「十草」柄かな?

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内側、こんなところが美しいと思う。

 

説教「罪を知って、キリストの掛け替えのなさに気づき・・」(ローマ人への手紙 7:7~13)より

「罪を知って、キリストの掛け替えのなさに気づき・・」(ローマ人への手紙 7:7~13)からの説教

 

 律法の果たしている役割の一つに、罪に気づかせるという役割があります。律法がなければ、何が神の御心に背くことなのか、神と共に生きるにはどうすればいいのかを知ることができません。


 パウロ「律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう」(7節)と言っています。

 

 では、律法によって神の御心を知ったならば、それに従って歩めるのかというと、それはできません。それはわたしたちが罪を抱えているからです。罪は、新約が書かれているギリシャ語で「ハマルティア」と言いますが、これは「的外れ、目的からそれていくこと」を表します。パウロ「罪は戒めによって機会を捕え、わたしの内に働いて、あらゆるむさぼりを起させた。すなわち、律法がなかったら、罪は死んでいるのである」(8節)と言います。つまり律法という神の基準がなければ、そもそも背くということ自体起こらないのです。だから「罪は死んでいる」つまり罪は働かないと言っているので す。罪は律法のあるところで、戒めから外れ、神の御心からそれていくように働くのです。

 

 では、律法がなければよかったのでしょうか。罪を抱えてしまった以上、罪に気づくためには律法は不可欠です。罪を抱えてしまった以上、人は必ず神から離れていきます。悔い改めて神に立ち帰らなければなりませんが、律法がなくては罪に気づくことがありません。そして罪が死に導くことを知らなければ、 救いを求めることもなく、神へと立ち帰る思いも起こりません。これをパウロ「わたしはかつては、律法なしに生きていたが、戒めが来るに及んで、罪は生き返り、わたしは死んだ。そして、いのちに導くべき戒めそのものが、かえってわたしを死に導いて行くことがわかった」(9, 10節)と言っています。

 

 ところで、パウロは律法なしで生きたことなどありません。パウロはピリピ人への手紙の中でこう書いています。「わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの 民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者で ある」(ピリピ 3:5,6)。彼は言ってみれば律法のエリートです。当時「国民全体に尊敬されていた律法学者ガマリエルというパリサイ人」(使徒 5:34)の薫陶を受けて育った律法学者の中の律法学者、パリサイ人の中のパリサイ人でした。


 そのパウロがなぜ「わたしはかつては、律法なしに生きていた」(9節)と言ったのでしょうか。それは、復活のキリストに捉えられて律法主義に気づいたからです。

 

 律法主義というのは、律法を表面上・形式上守ることで満足してしまうあり方、自分は神の御心に適って生きていると満足するあり方です。


 例えば、十戒安息日には何の業をもしてはならない」(出エジプト 20:8~ 10)という戒めに対して、自分は何km以上歩いていないし、何文字以上書いてもいない、何kg以上の荷物も持っていないから律法を守っていると考え、イエスが病人を癒やすと律法に反していると怒り出すような考え方です。


 パウロは生粋の律法学者、パリサイ人でしたが、復活のキリストに出会い、捉えられて、律法主義の間違いに気づき、本来神が律法を与えてくださった意図を全く理解していないことに気づいたのです。なぜなら「律法の義については落ち度のない」と言えるほどに律法を守っていたのに、イエス キリストを理解できませんでした。イエス キリストが救い主であることを知ったとき、今まで律法を学び行ってきたけれど、神の御心を全く理解できなかったことを知ったのです。今までの自分の信仰のあり方が間違っていたことに気づいたのです。


 だからパウロは言います。「罪は戒めによって機会を捕え、わたしを欺き、戒めによってわたしを殺した」(11節)

 

 そして律法主義の間違いに気づき、律法主義を捨てると、本来の意味で律法が働き出し、自らの罪に気づくようになりました。パウロはこの7章のもう少し後のところでこう言います。「わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」(ローマ 7:18~20)。

 

 パウロは律法主義は捨てても、律法を捨てた訳ではありません。パウロは 神の御心をなしたい、善をしようと願います。しかし、神の御心をなしたいと欲しても、それをする力が無いことに気づきます。自分の思い、自分の考え、罪ある自分自身がなくなりません。自分とは別に罪があるのではなく、自分自身がまさしく罪人なのです。罪人であるこのわたしが救われなければならないのです。 わたし自身が神の国に入り、救いが完成するまで救われ続けなければなりません。

 

 しかしこの世は、律法主義であることを求めます。現在、わたしたちの周りには数え切れないほどの法律があります。そしてわたしたちの行動が法律に触れるかどうか問われています。裁判ともなれば、まさしく律法主義と同様に、法律に適っているかどうかが問題となります。つまり、罪の世は律法主義であり、罪人は律法主義を抱え持っているのです。


 しかしパウロは、神がキリストを遣わして、キリストと共に死に、キリストと共に復活するその恵みの大きさを知ったのです。本当の救い主キリストを知ったとき、パウロは律法主義から解放されたのです。

 

 キリストの救いを経験したパウロは、 律法と罪を理解し直しました。その理解が12, 13節に書かれています。「このようなわけで、律法そのものは聖なるものであり、戒めも聖であって、正しく、かつ善なるものである。では、善なるものが、 わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである」。

 

 罪を正しく知るとき、いよいよキリストの救いを求めます。救いに与ったとき、キリストの掛け替えのなさに気づきます。


 エペソ人への手紙で、パウロは こう書いています。「信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」(エペソ 3:17~19)。

 

 パウロは、 ローマの人々が律法と罪を正しく知り、キリストの救いを切に求めるようになってほしいと願ってこの手紙を書いています。

 そして今、キリストを遣わすほどにわたしたちを愛していてくださる神ご自身が、キリストの救いを求め、救いに与ってほしいと願って、このローマ人への手紙を通してわたしたちに語りかけていてくださるのです。

 

ハレルヤ

 

讃美歌282
2 み栄えは主にあれ、つみびとをゆるす
  限りなきめぐみは あらたにしめされ
  律法(おきて)より解かれし
           自由のよろこび
  主に頼るこころに ふたたびあふれぬ

 

内田樹=著『レヴィナスと愛の現象学』から「ツィム・ツム(ヘブライ語の原義は「収縮」)」 - 風と、光と・・・雨音につつまれて

しかしこのイエスの教えを倫理道徳的規範律法や掟として捉えるだけであれば、「ツィム・ツム」行為へと一歩踏み出すことは不可能だろう。パウロキリストと出会って律法主義を捨てたように、自分の罪を知ってキリストの掛け替えのなさに気づきキリストに倣う者と替えられるのでなければ、「ツィム・ツム」的行為へと踏み出すことは出来ない。

したがってバルトにとって、聖書は、固定された規範という意味典型(鏡)を提供するのではなく、神の恵みの呼びかけと人間信仰の応答との間に展開される歴史出来事)の記録なのである。しかし神の呼びかけに応答した人間生き方分析してみると、キリストが示した典型にしたがって生きていることが判明するのである。(大島末男=著『カールバルト』より)

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コスモス変遷

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野菜売りのお爺さんが持って来たコスモスを

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そのまま花瓶に入れてしばらく飾った。

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ステンレスのキッチンばさみで

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水切りをして

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生け直したが・・。

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コスモスは水上げが悪いのか、ステンレスのキッチンばさみが悪かったのか、

 

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こんな風に、

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首の辺りの茎から細くなって

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項垂れてしまう。

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これは水が上がったのか?

 

 

娘を支えた聖書の御言葉

この秋、娘の友人達が会いにやってきた。娘が具合が悪くて都心に出て行けないから、あちらから来てくれたということだ。その友人達に、酷かった時の自撮りした自分の顔を見せたと言う。「アトピーで具合が悪いと言っても、どれくらい悪いのか実際に見なければ分かっては貰えないだろう」と思った、と言う。

苦しんでいる人達、弱い人達に寄り添う、ということがしばしば言われる。しかし、

「魂の苦しみを知るのは自分の心。その喜びにも他人はあずからない」(14:10)箴言にも言われているように、本当に苦しんでいる者に寄り添うことは身内でも出来ないものだ。

渡された御言葉と添えられた一言を見て、娘のアトピーとの闘いは信仰の闘いでもあった、と私は思った。

以下、

「わたしはあなたがたを愛している」と主は仰せられる。
あなたがたは言う。
「どのように、あなたが私たちを愛されたのですか」と。
マラキ書1:2

2013~2017年のこと、私は神さまの何に信頼を置いて信じていたのかが分からなくなっていた。そんな折にたまたま読んだこの聖句。一言一句、私が思っていたことがそのまま聖書に載っていた。私達が神に抱く不信感でさえも主はよく知っておられる。

 

おのれを閉ざす者は自分の欲望のままに求め、すべてのすぐれた知性と仲たがいする。
箴言18:1

とにかくしんどいのはもうたくさんだった。自分の中には不安と劣等感と不信感ばかりで、自分を守るために人に対しても神さまに対しても心を閉ざしていた。

 

八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。
ヨハネによる福音書20:26

怯えて閉ざされている場に主は来られ、安かれと語りかけてくださる。

 

あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。
あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。
ダニエル書12:13

最近になって私は生きるのが怖いのだと気付かされた。神さまは終わりまで歩むようにと言われる。しかし、延々と歩むのではなく終わりが確かにある。そこには私の居場所が用意されており休息が与えられるのだと。

 

彼らはそこに安らかに住み、
家々を建て、ぶどう畑を作る。
彼らは安らかにそこに住みつこう。
回りで彼らを侮るすべての者に
わたしが裁きを下すとき、
彼らは、わたしが彼らの神、
主であることを知ろう。
エゼキエル書28:26

用意されている場所では満ち足りた平安と喜びが私を待っている。だから、どんな人生だったとしても安心して生きなさいと主は何度となく言われる。

 

私たちは、御前に生きるのだ。
私たちは、知ろう。
主を知ることを切に追い求めよう。
ホセア書6:2-3

恐れを抱えながらも主の前に生きよう。
心を開いて主の御言葉を求めたい。

 

なんと幸いなことでしょう。
その力が、あなたにあり、
その心の中にシオンへの大路のある人は。
詩篇84:5

シオンへの大路は神さまへの真っ直ぐな広い道のこと。目の前の不安を見るのではなく人生という道の先に主を見つつ歩めたら…。

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説教「死人の中からよみがえられたかたのものとなり・・」(ローマ人への手紙7:1~6)

「死人の中からよみがえられたかたのものとなり・・」(ローマ人への手紙7:4)

 

 「それとも、兄弟たちよ。あなたがたは知らないのか」。


 信仰生活の中で既に知っているべき大切なことを語るのに、パウロは「あなたがたは知らないのか」と言います。既に 6:3、6:16 と2回言われています。


 伝えたいのは最初の 6:3 で言われていることです。「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである」(6:3~4)。

 

 イエス キリストを信じる者は、キリストと一つに結び合わされ、古い自分に死んで、新しく救いの中に生かされている。パウロはこのことをはっきり理解させたいのです。


  新しく救いの中に生かされているというのは、キリストの救いから自分自身を理解する。救いから自分の人生を見て、自分の将来を知る。この罪の世界も救いから理解するのです。救いから神の御心を知るのです。神がこのわたしをどう思っておられるのか。この世界をどう思っておられるのか。神はわたしをどう導かれるのか。どんな未来を与えてくださるのか。神はこの世界をどのように導き、どこへと至らせるのか。それを救い、すなわちイエス キリストから知る。それが新しい命に生きるということです。

 

 それを理解させるための例えが「夫が死ねば、夫の律法から解放される」(2節)という話です。例えですから、この手紙が書かれた時代、ローマで生きて暮らしている人々によく分かるための例えです。今からほぼ2,000年前の時代に生きた人々が分かるための例えです。ですから21世紀の日本に生きるわたしたちがこの例えにピンとこなくても気にしなくてかまいません。例えで伝えようとしているそのこと自体を理解すること、パウロが伝えようとしたことそのものを理解することが大事です。ですので、この例えを細かく説明することは致しません。

 

 きょうの箇所でパウロが 一番言いたいのは4節です。「わたしの兄弟たちよ。このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして、律法に対して死んだのである。それは、あなたがたが他の人、すなわち、死人の中からよみがえられたかたのものとなり、こうして、わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである」。

 律法から見るのではなく、キリストから見る。「わたしはキリストのものである」という救いの出来事から自分を知る。その事実は「わたしたちが神のために実を結ぶに至る」のです。


 

  「神のために実を結ぶ」とは一体どういうことでしょうか。これは神を指し示すに至るということです。マタイ 5:16 には「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とあります。立派な行いとは、天の父、つまり父なる神を崇めるようになる業のことです。みんなが自分を見て、自分をほめるのではなく、自分ではなく神を見る業です。律法を守って「これだけ正しく信仰的に生き ています、いいことをしています」ということを見せるのではなく、ただひたすらに神を指し示すのです。わたしを見せるのではなく、わたしを見るのではなく、「この方を見よ」とイエス キリストを指し示し、神を証しするのです。それが、神のために実を結ぶに至るあり方です。

 

 パウロは言います。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました」。


 律法によって生きていたときは、自分が律法を守っているかどうか、つまり自分自身が絶えず気にかかります。自分で自分を見つめます。神に目を向けるのではなく、絶えず自分に目が行きます。


  罪に囚われ、死へと向かっている自分を見つめているのですから、そこに救いはなく、死に至る実しか現れてこないのです。救いをもたらしてくださるキリストに目を向け、思いを向けるのではなく、律法を守ろうとしている自分がずっと気になっているのですから、そこに救いはありません。

 

 「しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである」。

 「新しい霊」とは「聖霊」のことです。聖霊によって、イエス キリストが救い主であることを知り、キリストと共に古い自分に死に、キリストと共に復活した新しい自分へと生かされていることを知るのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント 12:3)のです。

 

 父・子・聖霊なる神が、そのすべてをわたしたちに示し与えていてくださいます。イエス キリストがご自身の命をかけて、死んで復活してくださるほどにわたしたちは愛されています。だからわたしたちは、もはや自分を気にする必要がありません。自分には生きる意味があるのかとか、生きる価値があるのかとか問う必要がありません。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。


  神がひとり子を遣わし、その命を献げて贖いを成し遂げる。その出来事の中に、わたしたちの存在する意味も価値もあるのです。わたしたちの命の意味も価値も、自分自身で作り出すのではなく、作り上げるのでもなく、わたしたちを愛していてくださる神の出来事の中に、既にわたしたちの生きる意味も価値もあるのです。神はそれをひとり子イエス キリストを世に遣わして、その十字架と復活によって証しをしてくださいました。

「わたしはあなたのためにひとり子を遣わす。あなたを裁くのではなく、救い主を裁くことによってあなたの救いを成し遂げる。死を討ち滅ぼす。わたしと共に生きられるように、わたしは救いの御業を成し遂げる。あなたを愛しており、 あなたと共に生きたいと切に願っている」。だから、イエス キリストは生涯、その神の御心をわたしたちに語り続けてくださるのです。わたしたちの意味も価値もイエス キリストにあります。


 わたしたちはキリストと一つに結び合わされました。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」(ヨハネ 3:16)なのです。

 

 パウロはその神の恵み、わたしたちの救いがイエス キリストにこそある、それを伝えるために言葉を尽くし、例えを用いて、「あなた方は知らないのか」と3度繰り返しながら語りかけているのです。


 パウロは 祈りを込めてこの手紙を書いただろうと思います。それは今、遠くにいる人とも電話で話せる、会いに行くことだってできる、そういう時代に生きているわたしたちには、想像できないくらいの思いだろうと思います。まだ会ったことのないローマの教会の人々、ローマに旅した主にある兄弟からその教会の様子・人々の様子を聞いて、「手紙を書かなくては」そう思って16章にも及ぶ長い手紙をしたためました。

 キリストを信じて集った人々が、キリスト以外のものに望みを置いて恵みを失うことがないように、神が注いでくださる恵みのままに救われ喜ぶことができるように、そのことを願って書いています。「イエス キリストがあなたの救い主なのだ、キリストは人となって世に来られ、十字架を負い、そして復活されたのだ。あなた方はこのキリストと一つにされている、そのことを知らなくてはならない」。そのような思いでパウロはこの手紙を書いています。

 

 わたしたちは、神がわたしたちのために遣わされたイエス キリストを救い主と信じ、キリストにすべてを委ね、キリストを仰いでキリストを見つめて生きればよいのです。そのとき、わたしたちは律法からも自分自身からも解き放たれ、キリストのものとなり、神のために実を結ぶに至るのです。

 

生きているときも死に臨むときも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。
それは、生きているときも死に臨むときも、わたしがわたし自身のものではなく、わたしの真実な救い主イエス キリストのものであるということです。(ハイデルベルク教理問答 問い1)

 

ハレルヤ

 

この説教は、最も大事だと言う4節「死人の中からよみがえられたかたのものとなり」と呼応する形で「わたしたちが、イエス キリストのものである」というハイデルベルク信仰問答で終わったという点で、一貫性があり、完成度が高い。

それに、神の恵みを、キリストの救いの御業を伝えたいというパウロの思いが伝わってくる。